1. 齋藤彰俊選手(NOAH)と一宮の武道家が団体の垣根を超えてタッグを組む。

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齋藤彰俊選手(NOAH)と一宮の武道家が団体の垣根を超えてタッグを組む。

齋藤彰俊

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2020.05.02(Sat)

齋藤彰俊選手(NOAH)と一宮の武道家が団体の垣根を超えてタッグを組む。

2月の半ばから徐々に新型コロナウィルスが我々の生活を脅かし始め、各種団体の稽古場やトレーニング施設から子供達の声が徐々に消え始め、3月の後半に入ると子供達の声は市内の運動施設から完全に消えた。
 その後その猛威は瞬く間に国中を駆け巡り、各種春の大会などの開催が中止になり、国中の希望であった「東京オリンピック」が延期というまさかの異常事態にまで発展し、そして国民的行事である「春の甲子園」をも中止にするといったまさに国全体が襲われる「猛威」となった。
 
 日々ネガティブな情報が発信され、「自粛疲れによるストレス」などが容易に想定される中、一宮市内で三つの武道団体が先行きが見えないこの事態を重く受け止め、「どこにも行けない大型連休となる」そして「日々の自粛疲れ」がさらに加速していくことを想定し、3月初旬に市内の子ども達に向けて「我々が出来ること」を企画検討。
 団体の垣根にとらわれるのでなく、もっと大きな切り口で展開し、所属の子ども達以外にも届けられるマス的なものとして検討。
対策会議が三月初旬から行われ、「どんな運動がいいのか?」を幾度となく検討を重ねた。

 しかし、4月7日に緊急事態宣言が発令され、ここ愛知県も4月10日に緊急事態宣言発令となり、メソッド完成前に試技できず、企画そのものが頓挫しかけたが、出来る範囲で内容をSNSなどで対策・検討しあってきた。
 その熱意が、プロのアスリートに伝わり、地元愛知県に居住されているプロレス団体「ノア」所属の齊藤選手が「私が子ども達のためなら試技します」と声をあげ、ヒート所属の元ミドル級チャンピオンのダニロ・ザロリニ選手も監修に立会い、ザロリニ選手には場所も提供をいただき、一気に企画が進行し、この「器具を使わないスロー加圧トレーニング」の開発にこぎつけ、一宮市内の頑張るアスリートを応援するサイト「GO-PLAYERS」から配信する運びとなりました。

一宮市内で頑張るアスリーを紹介するサイト www.go-players.com
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(OPENING)自宅できるスロートレーニング

この企画の趣旨がわかりやすいオープニングを用意しました。
団体の垣根を越える〜といったコンセプトがわかりやすくなっています。
是非皆さまご利用ください。

スロートレーニングの考え方を齋藤さんが述べてくれています。
みんなでコロナを乗り切りましょう!

「スロートレーニング」(足編)

スロートレーニング(ふくらはぎ)

スロートレーニング(プッシュアップ)

スロートレーニング PETBOTTLE(肩)

スロートレーニング 上腕二頭筋

スロートレーニング(FULL)

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齋藤彰俊
水泳(平泳ぎ)が得意でジュニアオリンピック優勝(学童新記録)仙台市立五橋中学校生時代に全国大会で3位の実績を残し、中京高校進学。松永光弘は同級生であった。この頃には極真会館で空手の鍛錬も積んでいた。中京大学進学後も水泳を続け、インターハイやインカレ、国体、日本選手権で優勝し、ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなった。当時から長州力のファンで、パワーホールで選手入場したこともあったという。1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に誠心会館の門下生と徒党を組んで乗り込み、新日プロに宣戦布告。セコンドを両者数十人が取り囲む異常な雰囲気の中1月30日小林邦昭にTKO勝ち、週刊プロレスの表紙を飾った。2月8日には小原道由に勝利した。小林との再戦では関節技にて敗れるも長州は小林との一戦を高く評価する。その後長州に認められ新日プロに参戦。その後、青柳政司、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成するなど活躍。その後1998年に新日プロを退団。一時リングから離れ、名古屋市にショットバー「ココナッツ・リゾート」を開店、小牧市に格闘技道場「ノーティ」を開設。共に現在はプロレス専念のため閉店している。PRIDEに参戦した石澤常光のセコンドについたこともあった。
2000年10月にプロレスリング・ノアから声がかかり、青柳とともに参戦、以降はフリーの立場で継続参戦する。その後秋山準に共鳴しスターネス入り。秋山の正パートナーとして2002年9月23日に力皇猛&森嶋猛組を破り、第5代GHCタッグ王座を獲得した。2004年7月にスターネスを離脱。井上雅央、杉浦貴らとともにダーク・エージェントを結成した。
ノアでは長らくフリーの立場だったが、スターネス時代にはノアのジャンパーを着てセコンドに付いたり、様々なイベントにも参加するなど、ほぼ所属選手と同じ行動をしていた。
2006年1月1日付で正式にノア所属選手となった。
2007年6月20日のZERO1-MAXに来場、7月からの火祭りに参戦。
2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ王座選手権試合で王者として試合中、挑戦者の三沢光晴に急角度バックドロップをした際に、三沢が意識不明・心肺停止状態に陥って死亡するリング禍が発生した。結果として齋藤は三沢の最後の対戦相手となった。死亡を聞かされた直後は一睡も出来ず引退も考えたが、6月14日の試合後、齋藤は三沢の遺影に向かって土下座し「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」として現役続行を決意した。事故後には多くのファンが「不幸な事故」「齋藤は悪くない」などと同情を寄せた一方、一部のファンからは中傷を受けたが、齋藤は「自分に言うことで気持ちが晴れるなら全部受ける。逃げることはしない」と語った。
事故の発端となったバックドロップについて「今は封印しているが、社長の心の声が聞こえる時が来たら解禁する」としたと述べて、しばらくはバックドロップを封印していたが、9月12日の後楽園ホールでの森嶋猛とのシングルマッチにおいて三沢に許しを乞うように天を仰いでから3か月ぶりにバックドロップを使用、続け様のランニング・スイクル・デスで勝利した。試合後、齋藤は「みなさんすみません。バックドロップ、使ってしまいました」と涙声でファンに謝罪した。
2011年12月、24日のノア興行が所属最後と明かし、2012年よりフリー契約となった[1]が、ノアへの参戦は継続している。2012年1月22日には、秋山とのタッグでジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン組からGHCタッグ王座を奪取し、新日本プロレスに流出した王座を取り戻すことに成功した。
2014年6月13日、三沢光晴メモリアルナイトにて丸藤正道と一騎討ちを行い、試合後ノア再所属が決定した。
三沢没後10年を前にした2019年6月12日、5月11日(愛知巡業)にLINE NEWSの取材に応じた内容が記事になった。2009年6月13日のリング禍直後に自殺も考えたが「自分が命を絶てば、ファンは怒りの矛先を失う」と思い留まり、三沢の親しい友人から事故の2年前に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」と託された手紙を受け取ったという。その手紙は「重荷を背負わせてしまってスマン」「きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う」「それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない」「それでも、お前にはプロレスを続けてほしい」「つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と最後の試合相手が罪の意識に苛まれることを予見した内容で「お前が俺の最後の対戦相手になった『意味』みたいなものは、自分で考えていってほしい」という言葉で締め括られていた。それを考え続けてきた齋藤は、不運にも事故の加害者になってしまった自身と同じ苦しみを味わっている人のため「もう一度立ち上がって頑張る姿を見せていきたい」と話している。
2019年11月「反選手会同盟」を結成。
2020年2月24日、名古屋国際会議場にてデビュー30周年記念試合が行われる。
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